7. 民族と宗教の諸相:ユダヤ教、ヒンドゥー教、儒教、…
資料確定:2025-11-18 06:57
事前学修
紙媒体の情報源やインターネット検索によって、民族と宗教の関係についての最近の事例をいくつか手元に記録しておく(簡単な内容のメモ程度でよい)。
事後学修
授業で扱った人名や基本用語について、自力で簡潔な文での説明を書く(手が回らなかったら、リストアップだけでも)。
思い浮かばなかったところは調べて書けるようにしておく。
わからなかったものはノートなどに記録しておく。
(以上は、授業を聴きながらまとめられるようであれば、それでもいい。)
7.1. 民族と宗教
「民族宗教」に分類される「宗教」は、実は「宗教」概念への収まり方が微妙で、「宗教」として理解することがなかなか難しい面がある。
7.2. ユダヤ教
*主に、市川裕『ユダヤ人とユダヤ教』(岩波新書、2019年)にもとづく。
7.2.1. ユダヤ人社会の歴史
古代ローマ帝国
古代ローマ帝国では、ユダヤ教は公認されており、しかもユダヤ教徒は国家儀礼としての皇帝崇拝から例外として除外されていたので、ユダヤ教徒が宗教上の理由から迫害されることはなかった(長沼宗昭「ユダヤ人」『角川世界史辞典』)
イスラーム成立以前
7世紀のイスラム成立以前にも、ユダヤ教徒の居住圏は、地中海世界はもとより、東方ではアラビア半島からインドに至る広い範囲に及んでいた(長沼前掲「ユダヤ人」)。
イスラーム世界とユダヤ人
イスラーム世界の出現以後、ユダヤ人はイスラーム世界に組み込まれることで、バビロニアを中心にユダヤ史のなかでも類をみない繁栄を享受した(市川前掲書、p.15)。
イスラーム世界では、アラビア語による法学が学問の中心となり、それがユダヤ人の法学をいっそう発展させた(市川前掲書、p.16)。
後ウマイヤ朝のスペイン
イスラームとの密接な交流のもと、ユダヤの学問が栄え、ユダヤ人の間でも、イスラーム法学をはじめ、哲学、科学、医学、言語学が浸透した(市川前掲書、p..16)。
ユダヤ人は、イスラーム世界における「ズィンミー」(イスラーム法で、ムスリムの支配下に一定の保護を与えられた非ムスリム)という身分を取得できた。
ズィンミー(『岩波イスラーム辞典』)
イスラーム法で、ムスリムの支配下に一定の保護を与えられた非ムスリム。
ムスリムの支配に服従・協力し、ジズヤ(人頭税)とハラージュ(地租)を納める義務を負ったかわりに、生命・財産の安全と宗教の自由が保障される原則となっていた。
西ヨーロッパのキリスト教世界へ
9世紀以降、ユダヤ人がアルプスを越えて、ヨーロッパの北部に進出し、やがて都市住民として交易や金融業を担うようになった。
ライン地方を中心とした中欧出身のユダヤ人を「アシュケナジ」と呼ぶ。
レコンキスタとユダヤ人のスペイン追放
オスマン帝国
イタリア
ポルトガル
(ポルトガルからさらに)オランダ
西ヨーロッパのキリスト教世界の拡大とポーランドへの脱出
14世紀半ばのペストの猛威も手伝って、ユダヤ人への迫害を激化させた。
この時期からアシュケナジ系のユダヤ人は、徐々に東欧へと逃れていった。
主要な行き先はポーランドである。
ポーランドでは、13世紀半ば以降、ユダヤ人の受け入れが進んでいた。
16世紀の宗教改革期に、ポーランドはユダヤ教とプロテスタントの信仰を保障したため、ヨーロッパ最大のユダヤ人受け入れ国になった(市川前掲書、p.33)。
フランス革命
ユダヤ人もフランス国民として市民権が付与された(市川前掲書、p.39)。
ロシアでのポグロム
19世紀末から20世紀初頭に、ロシアではユダヤ人の迫害と虐殺である「ポグロム」(ロシア語で「破壊」の意)が発生した。
社会主義革命に身を投ずる者、パレスチナへの移住を志す者、そして欧米(特に合衆国)への移住を目指す大きな動きが生じた。
第二次世界大戦直前には、東欧から合衆国へのユダヤ人の移住が増加していた。
ナチスの主導した民族主義的全体主義
東欧におけるユダヤ人の大虐殺
「ホロコースト」(本来、ユダヤ教で最も神聖な「燔祭」「全燔祭」のギリシャ語訳)
「ショアー」(ヘブライ語で「破壊」の意)
第二次世界大戦後のイスラエル建国(1948年)と帰還運動
世界各地に離散していたユダヤ人が、大挙してイスラエルに移住した。
7.2.2. ユダヤ人の信仰
ユダイズム
ユダヤ人独自の精神文化。
現代のわれわれは、これを「ユダヤ教」と呼んでいる。
ラビ・ユダヤ教
一般的に、第二神殿崩壊(西暦70年)以後のユダイズムを「ラビ・ユダヤ教」と呼ぶ。
ラビと総称される律法学者によって構想・組織化されたユダヤ共同体の思想と実践。
「繰り返し語られた教え」の意。
西暦200年頃に編纂された。
ユダヤ人は、自分たちの社会が消滅の危機に瀕したとき、社会を存続させるために、生活のすべてを神の法によって統治する方法を模索した。その律法がミシュナである。
トーラー(関根清三「トーラー」『岩波哲学・思想事典』1998年) 律法、教えを意味するヘブライ語。
元来は祭儀・法律・倫理の諸問題について祭司が口頭で与えた教示のこと。
「二重のトーラー」
ミシュナの成立によって生まれた観念。
神がシナイ山でモーセに啓示した教えには、以下の二種があるという観念。
成文トーラー:文字に記された
口伝トーラー:口頭で伝えられた
口伝トーラー:ミシュナはこちらに含まれる。
成文トーラー:モーセ五書、『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』
「成文と口伝、このふたつのトーラーを同等に見なすことがユダヤ教の特徴である。」(勝又悦子「ユダヤ教 (2)」)
シナゴーグ(月本昭男「シナゴーグ」『角川世界史辞典』も参照) ユダヤ教の会堂。
紀元前3世紀頃から各地のディアスポラのユダヤ人の礼拝や教育の場となった。
第二神殿崩壊(西暦70年)以後は、ユダヤ教の宗教生活の中心となった。
神殿を模した構造に変わっていった。
神殿の供犠
神殿では、毎朝夕に子羊を奉納する供犠の儀礼(全燔祭)が行われていた。
神殿の破壊後、神殿での供犠について、家畜と農作物ではなく、人間の心を捧げる形に変え、シナゴーグ礼拝の柱とした。
シナゴーグ礼拝の重要な要素
シュマアの朗読:トーラーの中から、神に対する人間の側からの応答としてふさわしい聖句が選ばれた。
「十八祈禱文」:定型の祈り。中心となっているのは、神に対する具体的な願望である。
ユダヤ教の基本認識では、神は創造において厳格に被造物を聖と俗に峻別した。
一週間は、6日間の俗なる日と1日の聖なる安息日に分けられる。
聖と俗の境界を越えるときは厳格な儀礼が必要であり、第六日(金曜日)の午後は仕事を止め、食事の準備に当て、部屋を掃除し、身をきれいにして、安息日の準備をすべて終えて、静かに迎えるべきものとされる。
安息日にすること:家族のだんらん、シナゴーグでのトーラー朗読、説教、聖典の学習と議論、典礼歌、…。
安息日が終わるのは土曜日の夜空に星が三つ確認されたときで、儀式が行われ、禁止令が解除されて、日々の仕事が許される時間が到来する。
最近のニュースの例
7.3. ヒンドゥー教
基本的に、赤松明彦『ヒンドゥー教10講』(岩波新書)にもとづいて説明する。
置田「ヒンドゥー教(1)」(櫻井・平藤編著『よくわかる宗教学』所収)も適宜参照している。
赤松前掲書以外の文献を参照した際には、特記する。
7.3.1. 「ヒンドゥー教」という観念
「ヒンドゥー教」という観念が誕生したのは近代である。
「イスラームに対抗すべく、『ブラフマ・スートラ』を根本聖典としてそれぞれが独自の解釈を競い合った結果として宗派が成立してきた。」
「部分としてのセクト[宗派]が成立した時に、それらを包摂する全体としての「ヒンドゥー教」の観念が成立したと考えられる。」
インド人自身が英語で「Hindhuism(ヒンドゥー教)」という語をはじめて使ったのは1816年のことで、それはキリスト教やイスラーム、仏教との対比の中で、「ヒンドゥー教」もまた普遍宗教たりうることを言うためのものだった。
7.3.2. ヒンドゥー教は民族宗教?世界宗教?
外川昌彦「ヒンドゥー教(2)」(櫻井・平藤編著『よくわかる宗教学』所収)
「…現在では世界宗教(普遍宗教)のひとつと考えられている。」(p.80)
ヒンドゥー教は従来は、インド人の生まれながらの固有の宗教として、民族宗教と考えられてきた。しかし、歴史的なヒンドゥー教の各地への伝播やヒンドゥー教系の新宗教の広がり、ヒンドゥー文化のグローバルな影響の広がりなどから、現在では世界宗教(普遍宗教)のひとつと考えられている。(p.80)
山下博司『ヒンドゥー教』講談社、2004年
「ヒンドゥー教は、民族宗教的な性格をよそに、南アジア系移民たちの拡散にともない、世界的な広がりを見せている。」(p.30)
「ヒンドゥー教が、歴史的に世界宗教的な性格をもつものであったことは注目されるべきである。」(p.31)
ヒンドゥー教は、民族宗教的な性格をよそに、南アジア系移民たちの拡散にともない、世界的な広がりを見せている。過去に遡れば、インドシナ、マレー半島、ジャワ、ボルネオなど、東南アジア世界に伝播し、大きな影響力をとどめた歴史をもつ。かつてインドの商人や移民の進出にともない、東南アジアにヒンドゥー教が伝わり、インドネシアやカンボジアのあたりまで、相当数のヒンドゥーがいたといわれる。東南アジアにはたくさんの言語があるが、どの言語をとっても、その文化語彙の中にインド起源の単語が目立つし、サンスクリット語など、インドのことばに由来する地名も多い。この地域は、今でこそ仏教(上座部仏教、中国仏教)、イスラーム教など、宗教の別が際立っているが、かつてはヒンドゥー教をはじめとするインドの宗教文化の強い影響のもとにあった。ジャワなどでは、イスラーム化された今日においても、ヒンドゥーの二大叙事詩の伝承が、踊りや人形劇のかたちで豊かに保たれている。ヒンドゥー教が、歴史的に世界宗教的な性格をもつものであったことは注目されるべきである。(同書、pp.30-31)
7.3.3. 信仰形態としてのプージャとヤジュニャ
ヒンドゥー教の基本にあるのは、プージャのほうである。
神像に向かって合掌し、水や香をかけ、花を飾り、供物を供える礼拝。
ヒンドゥー教の基本的な礼拝形態。
ヴェーダの伝統とは、おそらく起源が異なる。
6世紀の前半には、具体的な姿形をとった神像に対する礼拝がすでに行われていた。
賓客をもてなす慣習行為に通じる。
ヴェーダの祭式を指す語。
神々との直接的な交流を通じて、現実生活における果報を得ることを目的として行われる。
神はバラモンによる祭式の対象であって、礼拝の対象ではなかった。神は使う対象。
7.3.4. 死後の観念:生天と解脱
生天:天界に生まれること
ヴェーダの祭式によって実現される。
ウパニシャッドでは、生天は「ブラフマンの世界への到達」として高い位置を与えられている。
解脱:「輪廻」(生まれ変わり死に変わること)からの解放
仏教は生天を否定し、解脱を目的とした。
ヴェーダの伝統を継承したはずのヒンドゥー教にとっても、いつの頃からか解脱が最終目的となった。
『マハーバーラタ』では、生天よりも解脱に高い位置が与えられている。
7.3.5. 5つの基本的な時代層:ヒンドゥー教の歴史的な重層性をとらえるために
現在のヒンドゥー教の特徴が歴史的にどのようにして形成されたのか。
①インダス文明:前2500―前1500年
②ヴェーダの時代:前1500―前500年
③叙事詩とプラーナの時代:前500―後500年
④バクティとタントリズムの時代:500―1500年
⑤その後のヒンドゥー教:1500年―現在
①インダス文明:前2500―前1500年
インダス文明における民間信仰の要素や自然崇拝の要素は、ヒンドゥー教のアニミズム的要素と関係していると考えられる。
インダス文明にみられる大きな沐浴場は、後のヒンドゥー教寺院にも見られる。
インダス文明にみられる動物犠牲を伴う祭式や沐浴は現在のヒンドゥー教でも重要な要素である。
②ヴェーダの時代:前1500―前500年
ヒンドゥー教において最も古くて重要な聖典(口頭伝承)。
前1500年頃西北インドから南下してきたアーリヤ人が保持していた。
ヴェーダの世界は多神教の世界であるが、中心に位置したのは祭式であり、主役は祭官であって神々ではなかった。
神々は、祭式を執行する祭官によってコントロールされる存在だった。
紀元前2世紀から紀元後4世紀頃にかけて、ヴェーダによる儀式行為はミーマーンサー学派によって体系化された(置田「ヒンドゥー教(1)」)。
「ウパニシャッド」は、一元的原理を哲学的に探求する思想運動が生み出した文献群である。
おそらく紀元前6世紀から5世紀頃に、従来のヴェーダ的な考え方を否定するような思想運動がうねりとなって起こってきた。
それは基本的には現世拒否的な思想だった。
その思想は、ウパニシャッドや初期仏教、ジャイナ教のそれぞれの経典に残された。
梵我一如:ブラフマン(梵)(宇宙の最高原理)とアートマン(我)(個我の本質)は本来同一であること(細田典明「梵我一如」『岩波哲学・思想事典』)。
ヴェーダの祭式伝統を村落で実践する在家的バラモンより、荒れ地で苦行を行う出家的バラモンのほうを優れた存在とした。
「生天」には高い位置が与えられていた。
③叙事詩とプラーナの時代:前500―後500年
二大叙事詩『マハーバーラタ』『ラーマーヤナ』の成立(紀元前後)
『マハーバーラタ』では、生天よりも解脱に高い位置が与えられた。
「プラーナ」と呼ばれる神話・伝説を語る文献群が作られる。
『バガバッド・ギーター』(紀元前後に成立)
クリシュナが唯一絶対の神として出現する。
「バクティ」(神への帰依):クリシュナは「神である私に専念し、帰依すれば私(神)のもとに来ることができる」と繰り返し呼びかける。
これ以後のヒンドゥー教は「バクティ」と「タントラ」の概念を中心にして展開する。
5世紀頃に著された『ヨーガ・スートラ』において、ヨーガの修行法が体系化された。
④バクティとタントリズムの時代:500―1500年
バクティ信仰:クリシュナ神、ラーマ神などへの献身的な信心に重きを置く在俗的な信仰形態(水野善「バクティ信仰」『角川世界史辞典』)。
(紀元前後に成立した『バガバッド・ギーター』[前出])
7世紀頃に、南インドで神への信愛が説かれるようになった(置田前掲)。
『バーガヴァタ・プラーナ』(10世紀成立)
「情的バクティ」がはっきりと表現される。
「そこでは、クリシュナにたいして向けられる帰依の感情は一種の恍惚状態として描かれている。信者は、興奮し、涙を流し、混乱し、気を失うほどの感動を味わう。その結果、帰依の本来の目的であったはずの解脱さえもがもはや忘れられ、信者は、輪廻を願い、恩寵によってくり返し生まれ変わり霊的な喜びを味わうことさえ願うとさえ言われるようになるのである。」(赤松前掲書、p.145)
13世紀以降、インド各地で様々に展開、隆盛する(水野前掲)
タントリズム
「タントラ」:ある種の文献の総称
5世紀以降に成立し、発達したヒンドゥー教の聖典で、神が直接語る形式のものを指す(高島淳「タントリズム」『岩波哲学・思想事典』)
「タントラと総称される文献に見られるような性的儀礼などを行う秘密の教えを〈タントリズム〉と呼ぶことが一般に行われている。」(高島前掲)
学問的には、上記の「タントラ」に共通する特徴的な傾向をタントリズムと見なす必要がある(高島前掲)。
特徴:完全に自由な行為する主体の復権(高島前掲)
「主体の否定による解脱は死体に等しいものにすぎないとして、行為し欲望する主体の価値が保たれるような解脱を構想する。それが、人格的な絶対神との合一である。絶対者を人格神とし、自己をそれと等しいあるいはその一部であるとすることによって、輪廻に拘束されないような能動的な主体を回復しようとするのである。」
タントリズムの考え方
「即身」を根本的な特徴とする。
「即身」:修行者が、現在の身体のままで、その身体において、絶対者、神、仏との同一化、同一性を体験する。現在の身体は否定されず、そのまま変成する。
入門聖別式(「ディークシャー」)は、単なる入門のための儀式ではなく、それ自体がそのまま入信者を浄化し、変容させ、解脱させるための儀礼である。
「タントリズムのディークーシャーの本質は、シヴァを最初の師「グル」とする師資相承を通じて伝えられた神の恩恵の力によって神との一体化を達成する力を得たグルが、自らの神と一体化した状態で、その神的力の恩恵によって、通常の人には一人では不可能な神との合一を弟子に体験させ、段階的なディークーシャーによって最終的には一人で神と合一できるようにさせることなのである。」(高島淳「書評と紹介」欄。赤松前掲書所引。)
⑤その後のヒンドゥー教:1500年―現在
2025-11-18はここまで。
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7.4. 儒教
宗教あるいは広域文化としての儒教
はじめに
①中国の宗教現象(池澤優「多様な中国宗教」『世界の宗教101物語』p.117)
(1) 仏教、道教…「漢族共有の宗教的源泉」
(2) 一種のエスニックグループを形成した宗教:イスラム教など
(3) 主に明清時代に流行したセクト的な集団…白蓮教、羅祖教
…これらとは別に、儒教の問題。
②池澤優「多様な中国宗教」
「儒教は宗教か?」という問い→「儒教」とは?/「宗教」とは?
ある文化における「宗教」の姿を概観しようとする場合、「…教」や「…宗」のリストとなるのが通例である。中国においても、そのような宗教というイメージに合致する宗教現象は存在し、それは三種に分類できる。
1. 仏教と道教
仏教は紀元前後に中国に伝来し、3世紀以降の動乱の時代の中で広範な信仰を獲得して、中国思想に重大なインパクトを与えただけでなく、中国の伝統的世界観を取り入れた諸派を生んだ。外来宗教の仏教に対し、道教は漢族の民族宗教であり、その淵源は戦国秦漢の道家哲学や信仰にあったが、紀元2世紀の原始道教集団と呼ばれる諸派によって救済を指向する宗教として確立し、不老不死、人間と宇宙の相応を核とする教義を発展させていった。これらは現在においても漢族社会のなかで広く信仰されており、いわば漢族共有の宗教的源泉となっている。
2. 一種のエスニック・グループを形成した宗教
イスラーム
キリスト教:すでに七世紀にネストリウス派(景教)が唐帝国の統治下に布教していたし、元明以降はカトリック、清代にはロシア正教、十九世紀にはプロテスタントが中国で布教を始めていた。
永続的な影響は持たなかったもののゾロアスター教・マニ教・ユダヤ教なども中国に広まったことがあった。
3. 主に明清時代に流行したセクト的な集団
白蓮教や羅祖教など、主に明清時代に流行したセクト的な集団。
多くは儒仏道の三教を折衷した教義を持ち、メシア的救済観のために国家権力の弾圧に遇うことが多かった。
しかし、以上が中国宗教の全貌といえるかどうかは極めて疑問である。中国においては宗教的諸要素は思想・文化・経済・政治の各分野の必要不可欠の一部となっていた。それを端的に示すのがいわゆる儒教の問題である。後述のように儒教自体は思想体系であって、決して宗教と言える存在ではない。ただ、そのなかには我々が宗教と呼んでいるような神々の体系や神々への祭祀、およびそれらの解釈などが不可欠の一部分として含まれており、しかもそれが仏教・道教以上に人々の信仰世界を規定してきたのである。聖なる世界が俗なる世界から明確に独立した領域を形成しない、それが中国の宗教の第一の特徴であったと言えよう。しかも、中国的世界観においては聖なる存在は人間から隔離した他者であったのではなかった。人間自体が聖性を内包した存在であり、聖性は人間の側からの主体的な参加により完成するものであった。人間には内なる聖性を顕現させることにより宇宙の生成と運営を維持する責務が課せられていたのであった。もし「宗教」が聖と俗の分離を核として確立する概念であるとするなら、中国の宗教は「宗教」概念とは矛盾するような性格を内包していたといえるだろう。(『世界の宗教101物語』p.117)
③重要用語
中国において、共同の祖先から分かれ出た男系血統すべてを含む同族集団。女系は排除される。同族、族人、族党も同じ実体。各宗族を区別する名称が姓である。
1. 古くは宗法に基づいた卿・大夫などの貴族の宗廟の祭祀を中心とする結合組織であった。
2. 漢代以後、豪族や門閥貴族(姓族)の結合組織となった。
3. 宋代以後には、地主階層を中心に、族譜、祠堂、共有地などを有する新しい宗族の再編がはかられ、近代に至るまで中国社会を構成する要素として大きな意味を持った。
(番号は、引用者による。)
中国古代、宗族を統轄するための制度。
殷王朝において兄弟相続制の混乱を防ぐために出現した嫡長子相続制が周代に整備されたもの。
周王朝では、嫡長子は代々王位を継いで大宗(本家)となり、その兄弟は諸侯に封建されて小宗(分家)となった。諸侯の家でも、この大宗と小宗の関係は成立し、卿・大夫など貴族以上の家の宗族内秩序を規定した。王の子の弟の封建、君臣の分、喪服[そうふく]や廟数の規定、同姓不婚など周代の主要な制度は宗法と密接な関係がある。
儒教(『中国思想文化事典』、p.283)
孔子に始まる教説の体系。
人間社会の歴史を、かつてはすぐれた人物(聖人・先王)による統治が行われていたと捉え、ふたたび理想的な黄金時代を実現させることを目標とする。
したがって政治に積極的にかかわろうとする特質をもつが、孔子ののちにも幾多の思想家が登場して儒教理論は歴史的に展開した。
諸子百家の一つとしては儒家、学術・思想の側面からは儒学とも呼ばれる。また、礼教や名教といわれるものも、実体としては儒教をさす。…
儒教という熟語は、5、6世紀に仏教や道教と併称される文脈において登場した。…(中略)…原義としては、(釈迦や老子ではなく、周公・孔子による)儒の教のことであった。
ところが、近代になって「教」をキリスト教(基督教)・イスラム教(回教)の教、すなわち宗教の意味で捉え、仏教・道教と違って孔子の教説は宗教ではないから儒教という名称は不適切であり、儒家・儒学と呼ぶべきだとする見解が生じる。
儒教を宗教と見なすかどうかは、儒教そのものの性質というより、西洋近代の学問体系において儒教がどう位置づけられるかにかかっている。
ヨーロッパ流の知の枠組から見たとき、儒教が宗教といえるのかどうか、古くから議論されながらいまだ決着していない。
たとえば孔子の思想史的位置づけについて、ソクラテスと同類の哲学者であって、仏陀、イエス、ムハンマドのような宗教家ではないとする立場が一方にある。
他方、孔子の教説は天道にもとづいて人々に規範を示しており、宗教意識・宗教精神を本質とするとの見方もある。
このように、前者は儒教を哲学思想とし、後者は宗教の一種とするのだが、そのどちらを本質として強調するかは、孔子および儒教をどう捉えようとするかという評価する側の構えにかかっている。
また、儒教の意味する範囲や宗教の定義いかんで、事実認識のうえでは一致しても、儒教が宗教か否か、見解が分かれることもある。
今後の課題としては、既成の宗教概念にあてはめて儒教が宗教かどうか判断することよりも、儒教のような教のあり方をも包含する新たな概念を練りあげる作業のほうが実りある成果をもたらすであろう。…
儒教のマッピング(池澤優「儒教」『世界の宗教101物語』)
孔子(前552/551-前479)
孔子死後の分裂…重点の所在…a.内面的な情意か/b.外面的な規範か
a.孟子〔前372?-前289?〕
b.荀子〔前313-前215?〕
武帝による国教化、董仲舒〔前176-前104?〕
3世紀〜唐代…現実に対する儒教の影響力が増大する時代
孔子の生涯と教えの概要:『論語』を中心に
実在の孔子の事蹟として、歴史的事実に認定できること(小島毅『東アジアの儒教と礼』山川出版社、2004、p.7)
政治的に意をえずに諸国を放浪したこと。
その放浪中および帰国後に多数の弟子を育てたこと。
その教育は詩書礼楽[ししょれいがく]を中心にしたものだったこと。
孝を強調したこと。
仁を人の道として説いたらしいこと。
…以上にすぎない。
儒教の内容の概略
儒教の内容(金谷治「儒教」『岩波哲学・思想辞典』)
【五常と三綱・五倫】
「修己治人」の教(わが身に道徳修養を積み、それによって人を治める)と言われるように、その思想は倫理と政治を中心とし、しかも両者の関係は一体的に必然的である。したがってその思想は現実的で強い実践性を備え、本来社会的であって、超越や彼岸の思考には乏しい。
倫理の中心は仁であるが、社会的には五常の徳とそれをささえる三綱・五倫が重視された。
五常:仁・義・礼・智・信
古来の祖先崇拝をふまえてそれを孝の徳として倫理化し、家族的な親愛の情をもとにしてそれを普遍化して拡大し、天下国家の政治活動にも及ぼす徳目としたものが仁であって、そこに義・礼・智・信を加えて〈五常〉とよんだ。
このうち礼は、仁が愛とか忠恕(まごころと思いやり)といった精神面を強調されるのと対応して、その仁の実践が一定の社会的形式に従うことを要請するもので、冠・婚・葬・祭その他種々の儀礼を通して儒教の伝統主義と文化主義が強く表出された。
しかし、それはまた現実の身分血縁による階層秩序の強化でもあった。
三綱・五倫
table:三綱
君 臣の綱
父 子の綱
夫 妻の綱
table:五倫
父子間 親愛
君臣間 正義
夫婦間 区別
長幼間 序列
朋友間 信義
〈三綱〉(君は臣の綱、父は子の綱、夫は妻の綱)と〈五倫〉(父子間の親愛、君臣間の正義、夫婦間の区別、長幼間の序列、朋友間の信義)は、おおむね縦の人間関係として、日常生活のうえでその秩序を具現するための実践道徳であった。
漢の時から〈国教〉となって政治権力と結びついた儒教は、天子を頂点として人民を底辺におく階層秩序を強化して体制教学となり、三綱・五倫は権威主義の封建倫理の核として人々の生活を厳しく規制した。…)
「仁」(「仁」『中国思想文化事典』)
儒家の開祖・孔子が最も重視した概念で、愛情、憐れみなどの意味。家族的な愛情が原点だと考えられている。
その後、仁義と併称され、さらに仁・義・礼・智の四徳として使われたりした。
漢代以後は仁・義・礼・智・信として五常ないしは「五常の性」のなかでの最高の徳目として重視された。
近世以降も、五常の性の一つでありながら、しかも他の四徳目の基底にあるものとして重視された。
「日常語であったと見られる仁を思想の中心にすえた人物は、春秋時代の孔子である。…(『論語』には仁の字が数多く登場するが)…孔子は仁自体を定義せず、状況に応じ、説く相手にあわせて実践的な心構えを仁の名のもとに使用することが多い。…」(「仁」『岩波哲学・思想辞典』)
「孝」(「孝」『岩波哲学・思想辞典』)
〈孝〉とは、父母によく仕えること。
子が親に敬愛の心を抱き愛情を注ぐのは、人類普遍の行為で特に中国に固有のものではない。
ただ中国では本来親と子の間にある〈孝〉が宗教的に祖先や子孫にまで関わり合うものと観念され、また〈孝〉が政治社会における全ての道徳に優先するものとされた点に特異さがある。
「孔子を始めとする儒家が〈孝〉を道徳思想の根本とするのは、儒家の道徳が本来宗族主義道徳であり、この家族の秩序を維持することが、ひいては国家社会の秩序を維持する根本の道であると考えたからである。
したがって〈孝〉は家族の秩序維持の原理であると同時に国家社会のそれであり、道徳の原理であると同時に政治のそれでもあった。
中国の歴代の帝王、たとえば後漢や唐の帝王が〈孝〉を重視したのもこうした観点からであった。」
「修己治人」…自己の修養を成し遂げたのちに、その徳を他人に及ぼして世を治める。 儒教の教に関わる局面
①漢代における国教化
(今日の研究成果では)「儒教の国教化は、武帝期から百年あまりの歴史のなかで、その地位が徐々に確立していったとするのが現時点での通説であろう。」(『中国思想文化事典』、p.284)
前漢後半から後漢にかけての、郊祀(天帝祭祀)と宗廟(皇帝の祖先祭祀)の整備
②宋代における新儒学の成立
新儒学:新しい歴史認識
「…漢代の儒者たちは、法家思想に則った秦を批判し、自分たちが属する漢王朝を夏殷周三代に直結させ、その政教の再現を企図していた。その後、宋初にいたるまで、三代が究極の理想であるのは当然のこととして、漢代はそれに次ぐ時代として規範的地位にあった。ところが11世紀後半から新たな歴史認識が台頭する。秦以降を(漢を含めて)全面否定し、孟子で途絶えた教説を自分たちが復興させたとする意識である。」(『中国思想文化事典』p.286)
「〔狭義の〕宗族の形成」(小島毅『東アジアの儒教と礼』、pp.54-55)
〔宋代、西暦11世紀半ば〜12世紀末、朱熹の活躍〜1241年朱子学公認の時期に〕
「自然発生的な同族組織ではなく、自覚的に儒教理論によって統合された男系血縁組織が構築され、古典の用語をもって「宗族」と呼ばれた。宗族内部の秩序は礼によって統制された。これにより礼教秩序が幅広い社会階層に浸透していった。」
周辺諸国への朱子学の伝播(小島毅『東アジアの儒教と礼』)
朝鮮 …優等生 …徹底的な礼教化。
ベトナム …複合文明社会 …礼教ではなく、精神的支柱として
琉球 …両属(中国と日本)…儒教の礼が形をもって普及していた。
日本 …儀礼なき国。江戸時代以上に、儒教倫理が社会に広く浸透した明治時代。
③近代における孔教運動(『中国思想文化事典』、pp.287-288)
孔教…「字義どおりは孔子の立てた教説、すなわち儒教をさすが、清末の康有為が戊戌変法運動[戊戌の変法]で孔教の国教化を提唱してから、ヨーロッパ流の国家宗教として再解釈された儒教を意味するようになった。…(中略)…康有為は、六経の祖述者・集大成者としての従来の孔子像を大きく転換し、孔子は儒教の創始者(創教者)、万世の教主であり、「托古改制」すなわち古えの聖人に借りて改革を行った素王であると断じた。…(中略)…その裏には、ヨーロッパ文明の精神的支柱たるキリスト教への対抗意識に加えて、外圧に悩む中国の民族的アイデンティティ確立への希求があった。康有為の高弟であった梁啓超は、『清代学術概論』でいみじくも「彼はヨーロッパの隆盛の原因がキリスト教にあると誤って考えた。そこで、つねに孔子をキリストの地位にまで格上げしようとし、讖緯の言[讖緯説]をまじえ引用してその内容としたのである。このため康有為の考えた孔子は、〝神秘性〟をおびることになった」と述べている。…」